先日電車で乗り合わせた女性二人組み。
まず乗り込んできたのが、大荷物の女性。座席の前で荷物をどんと置いてずいぶん長く立っているなと思ったら、その後実に悠々ともう一人が乗ってきました。当然のごとく(勿論礼など言わない)確保されていたシートにどかり。
この時点で彼女は、「すみません、私そこまで真面目にメイクしたことないです」と侘びを入れたいくらいの気合の入ったメイクをしていました。まあ、もともと彫りの深いくっきりした顔立ちの女性ではあったのですが、とりあえず、眉、アイシャドウ、マスカラ、口紅、チーク、これだけは間違いなく完了していたわけです。
そこから各駅停車で約四十分間、彼女はお化粧を続けていました。
隣に座った連れの女性が、某百貨店の使い古した紙袋から、次々とメイク道具を取り出しては手渡していきます。真向かいの席だったので思わず凝視してしまったのですが、マスカラだけで三本お使いあそばしてました。
ちなみにこの間、まったく会話なし。
つまり、この連れの女性は、相手の彼女のメイク手順を完璧に知っているわけです。
連れの女性の献身はそんなものにとどまりません。
電車が揺れれば肩を掴んでおさえ、もっとひどいときには腕を肩にまわして窓ガラスに頭があたらないようにし、ちまちまと出るゴミは受け取って袋へ入れ、マスカラなんて余分についた液をちゃんと落としてから渡すのです。
しつこく言いますが、この間一切会話はありません。
途中で一件だけ、連れの女性が携帯でどこかに連絡を取っていましたが、あきらかに相手の女性のためのもの。
実に四十分もの間そんな光景が繰り広げられていました。
私は四十分の時点で電車を降りなければならなかったのですが、その後彼女らがどうしたのか、そして何より一体彼女らはどういう関係だったのか、いまもって謎です。
友人に話したところ、「美人だったのならモデルとマネージャーとか、同じ事務所の先輩後輩とかじゃないの?」と言われたのですが…も、モデル業界ってそんな怖いところなの…?
しかし、怒涛の四十分でした。
…私が電車で化粧をしないのは、「すっぴんで電車に乗る」と「電車で化粧をする」を秤にかけたとき、後者をより恥ずかしいと思うからであり、揺れる電車の中であんな細かい作業をする気になれないからなのですが、世の中には色んな人がいるんだなあと思いました。
…ないですよ、すっぴんで電車に乗ったことなんて!(眉ファンデ口紅だけの状態でなら何度かありますが…!)
群れ集う人々をいとわしく思う。
自分もまた群れずには生きてゆかれぬのだが。(2006/11/11)
世の中に在るのは皆自分とは違う人間なのだ
ということを時折思い出して楽しむ
その傲慢さ。(2006/11/11)
レコード屋さんて、そういややっと言わなくなったな…
さておき家の近所のCDショップが新機軸だったので報告。
邦楽コーナーは普通なんですが、洋楽コーナーの並べ方が五十音順。
びびったけどわかりやすいような、そうでもないような。微妙。(2006/10/22)
意外と、日記を読み返すよりも、携帯のメールボックスを見たほうが、そのとき何があったのか、自分がどんな気持ちだったか、何が一番気がかりだったのかがよくわかる。(2006/10/18)
いまこそわかれめ、が係り結びだということに気づいたのは実は本当につい最近です。
それまでずっと「親の死に目」とかの目だと思ってました。(2006/10/06)
しかしそれが必要なときもあるのだ。(2006/10/05)
東京に来て一番違和感あったのが、ホームに電車が入るときのアナウンス。
「危ないですから白線の内側…」
というあれ。
実家近くの私鉄は、子供の頃はずーっと、
「危のうございますから」
と言っていました。最近「危険ですから」に変わったんだけど。
意外と地域によってバラつくんだなあ。
「ドア閉めます」と「ドアが閉まります」とかね。
事実を書く、というのは非常に難しい。
たとえば花を見た人に、そのことを書きなさいと言ったとする。
ある人は「赤い花が咲いている」と書き、またある人は「チューリップの蕾がほころびはじめた」と書く。
一方を読んだ人は赤い花が何なのかを知ることはできないし、もう一方を読んだ人はチューリップが何色なのかを知ることはできない。どちらを読んでも、花が一輪だけなのか、それともたくさん咲いているのかはわからない。
たとえ字数や時間に制限がなくとも、人に表現できることには限りがある。目にすべてが映り、耳にすべてが聞こえたとしても、どれを拾い上げるかはその人間が決めるからだ。(2006/12/3)
レイ・ブラッドベリが「FAHRENHEIT911」というタイトルに大激怒、というのをどこかで聞いたとき、まっさきに思ったのが「え、まだ生きてたんだ」でした。「火星年代記」って小学生くらいのときに読んだような…。まったく覚えてないんだけど。
読んでみようかなあ。(2006/12/3)
そんなことはない。
大人はとってもわかってる。子供が、子供だった自分がどれだけおばかさんだったかを。
だから怒るし、無謀を止めもする。
でもまあ、逆らうのは子供の特権だ。そうしないと大人になれない。(2006/12/12)
好きでない人から好きだと言われても嬉しくはない自分に気づいた。
ああやっと無駄なことをせずにすむようになったのだ。(2006/7/25)
歴史モノと言われる分野、それからドキュメンタリー、それはいいけどこれはいやだと感ずるのはどうしてだろうと考えて、
まだその人たちのことをなまなましく覚えている人がいる
というのが引っかかりの原因であると気づいた。
どうにも、あの感覚が理解できない。(2006/7/20)
向けられる悪意に気づかぬほど鈍いわけではない。
どんなに慇懃な言葉であってもその裏側に悪意が潜んでいれば気づく。
…いや、違うな。
言葉を投げかける以上、話し手は相手に理解を求めている。
それが悪意であるならば、表面をどう取り繕おうと、悪意を相手に感じ取ってほしいと考えて言葉を選ぶ。
なるほど、だからか。(2006/7/13)
自分にとっての真実を主張する権利を誰しもが持っているし、それを信じるか信じないかを選ぶ権利もまた、皆が持っている。(2006/7/11)
と、私が怒っている様子を見て人から言われたのですが、そうは言ってもクソを踏んづけてしまえば靴が汚れる。やっぱり腹が立つのだ。(23006/7/4)
と言うのは要するに、「相手がバカである、と気付くまでに疲れる」ということなのだなと気付いた。(2006/06/27)